セラピストの経験年数はあてにならない。まず「無知」を認めた方が良い件




こんにちは。作業療法士のトアルです。

「無知の知」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉です。

「自分の無知を知っている者が一番賢い」という意味の言葉です。

一般論で語られると気を悪くされる方もおられるとは思いますが、
普通の企業でも、セラピストでも経験年数を重ねてくると仕事に慣れてきて
ある程度の余裕が出てくると思います。

対応できることも増えてきますし、同じ職場で人間関係も構築されて、
良い意味でも、悪い意味でも「これでいいんだ」という考えが出てきます。

しかし、本当にこれでいいんでしょうか?
漠然とした不安も同時に出てこないでしょうか?
学生の頃や新人で就職したときの熱意や直向きさをどこかに忘れてきてはいないでしょうか?

いつの間にか周囲に引っ張られ、「これでいい」と思うようになる。
「急性期でOTはただ歩かせている」「PTと似たことをしている」

何かもやもやしたものを感じながら仕事をしていると、目標がなくなり熱意が冷め、
やる気が無くなるというスパイラルにはまり込みます。

私の職場のOTもそういった状況があります。

そうなっちゃうと何だか悲しいですよね。

PTと似た事をして何も成長できず、職場を去っていく…。
私はそうはなりたくはないんです。

漫然と仕事をする罠

仕事に慣れルーチン化することは、無駄な作業を省いているという点でメリットがあります。

しかし、医療は日進月歩で着実に進化していますし、知らない疾患の患者さんも入院してきます。
そして知らない医療用語・薬などもたくさんあります。

本当は知らないといけないことが、知らなくてもリハビリの通常業務としては
何とかなってしまうのです。

経験を重ねる事でのルーチン化の罠はそこにあります。

人の考え方は千差万別でそれをよしとする人もいますし、
私はそれを批判するつもりもありません。
ただ知らないことに気付かない場合だってありますしね。

ただし「知らない事が顕在化する。」

これが一番怖い事なのではないかと思います。

知らないことは教えられない

知らないことが顕在化するとどうなるのでしょうか?

それは成長が止まってしまうことです。

成長が止まるとどうなるのでしょうか?

成長が止まると経験年数とは不相応な知識と技術しか持ち得なくなってしまします。

セラピストはある一定の経験年数になれば、学生さんのバイザーになったり、
後輩の教育担当になります。

その時に初めて気が付きます。

「自分は何も出来ていないのではないか」

これに危機感を覚えて、前向きに努力するのであれば全然問題ないと思います。

しかし、中には教えられない自分が問題なのではなく、相手の方が悪いと取る人もいます。
自分が教えられないのが問題点であるのに、相手に責任転嫁をしてしまう。
こんな人がもし自分のバイザーだったらと考えたらどうでしょう?

少し怖くないですか?

実はこれ、2年前の自分の姿です。

今考えても、当時は余りに幼い考え方だったなと思います。

自分が知らないことを質問されると、相手が下の立場である事をいいことに
横暴な対応をしていたんですね。

このときは、こっぴどく職場の先輩に怒られたのを覚えています。
「うまく指導できないのは、相手が悪いのではなく、自分にも要因があるはず。」
「自分が知らないということを知って努力しないと、年数が経っても何もできない人になるよ。」

言われた当時は、感情的になりイライラしていました。
しかし、よく考えてみると最もな話で、ある程度の経験年数があるのに
後輩や学生さんにちゃんと指導できないというのはやっぱり問題なんです。

そして、横暴な態度というのは周囲の人間はわりと敏感に気付きます。
気付いてないのは、横暴な態度をとっている本人だけって場合も多いです。

これじゃ、職場の人間関係にもヒビが入りますよね。
「あいつ何やってんだ?」って感じです。

自分の職場の周囲の人を見ていると、指導するのに向いてる人や、人に好かれる人って
いつも謙虚な姿勢で何かを知ろうとする努力をしているんですよね。

これは先輩、後輩、年齢、経験年数は関係ないと思います。

自分は常に何も知らない、だから他の人にも謙虚に接して
「知らないという事」を学ばせてもらっている。

知らないという事をしっかり知って、謙虚に学んでいくそういう姿勢って
本当に大切なんだと思います。

これが、現時点での「無知の知」に関するエピソードです。

 

まとめ

話が大分飛躍してしまい、取っ散らかってしまいましたが、
ここまで読んでいただきありがとうございました。

この記事が皆さまのお役に立てれば幸いです。